「学校はみんなの居場所」 小学生の標語から考えてみた
「居場所」について気になる言葉があったので、少し考えてみました。
「学校はみんなの居場所」
Facebookでこのようなツイートを目にしました。
小5児童による学校標語が校長室に飾ってあった。 「学校は みんなの居場所 学ぶ場所 だれもがみんな 好きになる場所」 これはいい。 pic.twitter.com/TBTuUubj03
— 豊福晋平(GLOCOM) (@stoyofuku) 2014, 6月 27
学校は、児童生徒が毎日多くの時間を一緒に過ごす場所。この標語のとおりありたいね、と率直に思いました。
不登校などの子にとってはどうか
一方、このことは、不登校などの子にとってはどうなのでしょうか。
不登校などになっているということは、学校は、その子たちの居場所にはなれていないということ。それを、無理やり「あなたの居場所はあそこだから行きなさい」と言っても無理なことですし、それを言われても、その子にとっては苦しいばかりです。
私は学生時代、ある議論の場で、不登校を批判するような発言を聞いて、反論したものの、わかってもらえず、もどかしい思いをしたことがありました。
不登校の子が、どう頑張っても単位が足りず、先生たちが手を尽くしても留年などしてしまう状況だとしたら、そのこと自体は仕方ないかもしれません。でも、学校に来ていないのはおかしい、それは本人の責任だと言ってしまったりするのは、本人がますます学校に来づらい状況をつくるだけで、何ひとついいものは生みません。
こうした考えもあり、私も学生のときは、不登校の子がいつでも戻ってこられるよう、ストレスをかけないようにフォローするよう心がけていました。
「ぜひどうぞ」といえる居場所に
冒頭の標語に戻ると、こう考えるとよいのかなと思いました。
- 「学校はみんなの居場所」そうありたいという思いは素敵
- でも、学校こそがみんなの居場所であると押し付けることは、学校で居づらさを感じる児童生徒にとってはストレスになりうる
- 「みんなの居場所」は、もし顔を出せなくなった子がいたとしても、いつでも戻ってこられるような柔軟性のある居場所を目指せばよいのでは
特に高校生までは、学校って生活の大半ですし、そこが子どもたちの世界に占める割合が大きいので、そこがみんなの居場所になれるかどうかというのは、大きいですよね。
また、学生に限らず、居場所が見つからなくなった人がいつどこに落ち着くかということは、素人ではなかなか手伝えることではないと思います。
周りにいる素人にできることは、ただ、その人が落ち着こうと自分のところにきたときに、ぜひどうぞと言える場をつくっておくことではないでしょうか。