「うちの○○」「わが○○」が表わすもの
4月は、進学・就職の時期であり、異動の時期である人も多いでしょう。
新しいところに所属して、新たな生活が始まります。そうすると、今まで「うちの学校」だったものが「卒業した学校」になったり、「うちの職場」だったものが「前の職場」になったりします。
学生のころは、進学するのにはわくわくがあって、「うちの学校」と言えるようになるのが嬉しかったように思います。ただ、最初は慣れなくて、言ってみるものの、なんだかくすぐったい思いもしていました。
ただ、「うちの○○」「わが○○」といった表現は、本人にそういう意識がないと、使いにくいものですし、なかなか口から出てきません。
それなので、私は就職以来、異動するたびに、しばらくは「うちの課」といったことばは使いにくく、そればかりか、前の部署について、しばらくは「うちの○○」と言いかけてしまうこともしばしばありました。
ところが今回、それとは違うことが起きました。
私はこの4月に異動があったのですが、就職してこれまでほとんど同種の仕事をしており、今回の異動では、初めて全く違うタイプの部署に動くことになりました。
新しい部署には数人の知り合いはいましたが、全く未知の世界に足を踏み入れるということで、仕事は全くイメージできないまま、異動の日を迎えました。
しかし、着任してみると、早速外部と打合せが続き、その結果を上司に報告するなど、引継ぎもそこそこに、一担当者として、目の前の業務をこなすことになりました。
すると、これまで、部署内の異動ですら、新しい部署に「うちの・・・」と言うような帰属意識をすぐにはもてなかった自分が、2日目には、今自分がいる部署(=異動先の部署)について「うちの○○」と口にしていました。
要は、「当事者意識」がもてるようになるかどうかなのだと、そのときに気づきました。
今回は、たまたま外部の人に対して担当者として接するという機会があったため、借りてきた猫のようになっている暇はなく、すぐにでも当事者意識をもって仕事をすることになったのだと思います。
思えば、子どものころ、「うちの学校」と早く言ってみたかったのも、早くそこの一員になりたいということの表れだったのでしょうね。
これまでと違った環境であればあるほど、自分がその一員という意識をもつまでに時間がかかるし、入っていくのに勇気がいるものですが、思い切って飛び込んでしまってから、それに意識があとからついてくるということも、案外あるのかもしれません。